吉野堂物語

ひよ子の「青春の門」

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幾度の浮沈を乗り越えて

「ひよ子」の草案者石坂茂が、昭和十三年に亡くなった後、妻のイトは、長男博和をはじめ四人の幼子を抱えて、戦中、戦後の苦難の時を「夜の目も寝ず」に働いて、女手ひとつで乗り切っていきました。戦時下物資不足で休業せざるえなくなったときにも、イトは、「いつか、必ずひよ子を作る」という強い意志と希望を持ち続けて頑張りました。イトは、どんな時にも明るく、力強く、生き抜いた「飯塚の女」でした。

博多へ出よう

昭和三十一年のこと。十七才のときに家業を受け継いだ石坂博和は、このとき二十六才。当時、世の中は「もはや、戦後ではない」と、日本の復興が宣言される中、「神武景気」で沸き立っていました。しかし、その一方で唯一の国産エネルギー源として日本の産業を支えてきた筑豊の石炭産業に、斜陽の影がさしはじめていました。石炭から石油へ。大きな転換の波が押し寄せていたのです。時代は変わる。「夢と勇気をもって、前へ踏み出そう。」博和は、福岡市への進出を決断しました。

あさかぜ

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当時、福岡市の人口は五十万人。九州の中心に大手企業が次々と進出し「博ちょん族」と呼ばれる転勤族がふえたのも、この頃です。平成十七年二月二十八日が最後となったブルートレイン「あさかぜ」が東京・博多間を十七時間で走り始めたのが、昭和三十一年十一月。そして、「神様、稲尾様」を先頭に西鉄ライオンズの猛者たちが日本選手権三連覇という歴史的偉業を達成したのも、この三十一年からのこと。福岡・博多の街は日本のどこよりも熱気と活気に満ちていました。
人が集まり、人が動けばお土産がいる。お土産といえば「ひよ子」がある。そう、いよいよ「ひよ子」の出番です。

ひよこが人気

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その福岡でも、活気の中心は「天神」でした。当然、博和の思いは天神の一等地に何としても出店すること。その熱い思いで様々な試練を乗り越えて、天神のど真ん中に、店舗を構えることができたのです。 開店は、昭和三十二年二月。干支の酉年とひよ子に因んで、お客様に卵をプレゼントするなど、大々的な宣伝活動を行い、一挙に街中の話題をさらってしまいました。 以来、「ひよ子」のテレビを中心にした積極的な広告活動はこのときの成功が出発点となりました。お陰で、「ひよ子」は焼き上がるそばからお客様の手に渡っていき、店の前には長い列が並ぶといった状態が続きました。あの愛くるしい姿と香ばしさ、それに、たまごの黄味がたっぷりのお菓子として、名菓ひよ子は博多、福岡の人気者になっていったのです。

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